霞ヶ関に未練なし 

「官僚の限界」に見切り

2001.08.23
日本経済新聞


政治家

職業としての選択


昨年十月、十七年間勤めた通産省(現経済産業省)に辞表を出した時、同僚たちの反応は「いつかはやると思ってた」だった。先の参院選で初当選した松井孝治氏(41)。故郷の京都に戻って十カ月、民主党の新人議員として永田町の住人になった。

待っていた徒労感

政治主導の流れの中で、霞が関は岐路にある。戦後の経済成長をけん引したと自負する経産省の役割も微妙だ。同期のトップ集団を走っていた松井氏も、早くから「産業政策より行財政改革だ」と割り切った。

橋本政権時代、省庁再編を手がける首相直属の行革会議に志願した。建設省解体、郵政民営化……。次々にアイデアがわき出す若手官僚グループの中で「役人にもこれだけできる」と、高揚感を味わう。

待っていたのは、挫折と徒労感だった。族議員の寝技、立ち技には対抗するすべもない。それ以上の"抵抗勢力"だったのは、自らが所属する組織そのものだ。十段階近い省内協議、他省庁との調整、そして与党審査と続くうちに若手案は骨抜きにされ、最後には「役所の組み合わせを変えただけ」のものになった。

上司の言葉が今でも頭に残る。「こんな案で自民党が通ると思ってるのか」ーー。愛読書である城山三郎の「官僚たちの夏」に描かれた「気概のある官僚像」のかけらもない。「改革をしょうとしたのも政治、これをつぶしたのも政治」。かねて考えていた政治への道に踏み出すのに、時間はかからなかった。

第2の転出ブーム

「大蔵官僚?だから何なんだ」。「官僚(ビューロクラート)ってのは、『何もしない人』という意味だろ」。大蔵省から一足先に政界に飛び込んだ民主党の古元久衆院議員(35)は、留学先の米国で言われたものだ。

当時、もめにもめていたのは米国が日本の規制社会にメスを入れようとした日米構造協議だった。米国人の目には「日本は官僚が超保守的だから何も変わらない」と映った。留学から戻ると、財務省の「若殿修業」と呼ばれる地方の税
務署長ポストが待っている。三十歳。迷うことなく辞表を出した。

官界が政界の「人材供給源」だったのは間違いない。戦後政界の人材空白期に、当時の若手官僚が相次いで政界に進出した。が、時代を経るごとに「天下り」や「出向」感覚で霞が関から永田町に移る風潮も出てくる。.

逆に霞が関の地盤沈下で、選挙での「官僚ブランド」は、めっきり威力を失った。古川氏が初出馬した96年衆院選では、大蔵省出身の9新人が完敗。野党で大蔵批判を展開した古川氏一人が惜敗率で救われた。

政界を目指す若手官僚にとって、選挙に出るなら早い方がいいし、政党にも
あまりこだわらない。霞が関に第二の政界転出ブームが起きているふうすらある。

繁忙の毎日に戸惑い

もっとも巨大組織のエリート官僚と「選挙に落ちればタダの人」といわれる政治家とのギャップは大きい。農水省出身の大村秀章・自民党量三議員(41)が最初に戸惑ったのも、繁忙を極める議員の日常活動だった。国会や党の日程をぬって地元の後援会を宣固める。そして陳情の処理。

役人時代、「政治家は選挙のことばかり考えて大局観を持っていない」と言い放っていた古川氏も、今はその言われる側に立っている現実に苦笑せざるをえない。

「政治家は私の属性の一部分。国の方向づけができれば、さっさと辞めますよ」(古川氏)。ただ、政界は「刃物を使わない戦場」でもある。勝った方が正義となる権力闘争の世界に乗り出した官僚たちの前途は、まだ分からない。


マスコミファイル トップ