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失われた十年と呼ばれる九〇年代から今日に至るまで、あらゆる経済主体が自信を喪失した。日本的経営によってわが世の春を謳歌していた大企業は、自己のビジネスモデルを見失っている。
かつて、「自分たちこそが高度経済成長を牽引してきた」という強烈な自負を抱いていた官僚組織も、相次ぐ不祥事と政策の失敗、そして失政の責任を取らない自らの卑小な行動によって、その権威を完全に失墜させてしまった。
政治家の多くは、相変わらず利権の追求にかまけている。国民のだれもがこの国の行く末について明るい希望を抱けなくなってしまっている。
そうした中、改革を恐れぬ政治的意思を誇示して登場した小泉首相に対し、多くの国民が期待を寄せたのは無理からぬことであった。
率直に言って、政権発足当初、与野党を問わず、志を共有する多くの議員が、小泉改革の意気込みを評価し、その実現に強い期待を寄せていた。それは、小泉政権が目標とする社会像を提示し、現実の社会がその目標へ至る道筋を政策体系の中で示すことへの期待であり、その前提として、目標実現の障害、すなわち、古き自民党的体質の打破に「強い意思」を有することへの期待であった。
政・官・業癒着の国家社会主義的思想に基づく土建国家的経済運営を断ち切り、欧米が八〇年代に行った新自由主義的改革が遅まきながらこの国でも行われるという期待が、国民各層に浸透した。
わが党内でも、仮に自民党内の抵抗勢力がかかる改革を妨害するならば、小泉内閣に協力することもやぶさかではないという空気すら充満していた。
しかし、現実の小泉首相の言動は、日に日にその期待と乖離していった。
テレビ中継やニュース番組で国民の目に映る小泉首相の姿は、小泉純一郎という政治家のごくごく一部にすぎない。
実際に国会の場で働いている私たちが目撃している小泉首相は、専門知識に乏しく、自身が関心を有する特定の分野ですら極めて大雑把なことしか語らず、語れず、各論は常に官僚任せの哀れなものである。
小泉政権は、今日に至るまで、改革のメニューを並べることはあっても、その先にめざすべき国家像を示すことはついになかった。理念や哲学、改革後のこの国のかたちが一切見えてこないのである。
小泉首相は、実際の改革に向けて汗をかくことも泥をかぶることもなかった。
圧倒的な高支持率に支えられながらも、特殊法人改革、医療制度改革、税制改革、不良債権処理、いずれをとっても自らが泥をかぶるような抜本改革には程遠いものばかりである。
例えば、特殊法人改革のシンボルとされた道路公団問題についても、「民営化組織」の具体的な形態・業務、国の高速道路建設へのかかわりは未定であり、それらを議論する第三者委員会の人選と内容は全て先送りされた。
現実には、改革の成否も含めて政策は道路族の掌中にある。ほかの多くの特殊法人については「衣替え」か、改革の「先送り」のいずれかである。
医療制度改革についても、利用者のみに過重な負担を押し付け、健康保険制度や薬価制度などの構造問題を先送りにするものである。総裁選の公約である首相公選制の導入に至っては私的研究会に検討を依頼したきりである。
勇気ある構造改革派を標榜したはずなのに、いざ実行段階になると改革に抵抗する旧来勢力、日本を堕落させた勢力との中途半端な妥協を繰り返し、あくまで抵抗勢力との相対関係で自らを改革主義者として国民に印象づけることに腐心する、
見かけだおしの改革者、残念ながらそれが小泉首相の正体だった。
小泉改革の遅さを指摘したルービン元米国財務長官に対して、小泉総理は「自分は政権について一年足らず。改革には時間がかかる。もう少し待ってほしい」と発言したと聞く。
いったい、いつまでに、何を行おうとしているのか。そのゴールも示さず、何を待つというのか。「自民党は着実に変わっている。もう少し待ってほしい」との発言も、鈴木宗男事件、加藤紘一事件を見てのとおり、何を根拠にそう言えるのか、理解不能である。
そもそも、国民にとって、自民党が変わるかどうかは問題ではない。この国が変わるのかどうかこそが重要である。もはや日本国にも、われわれの世代にも、自民党が変わるのを待っている時間的余裕はない。
小泉改革に対して期待を抱く時期は過ぎた。妥協と先送りの中でツケはいよいよ臨界に達した。局面は変わった。
われわれは、今、立ち上がる。私たちの世代の日本は、私たちの世代で創造するのだ。
では、いかなる考え方で私たちの世代の日本を創り上げるのか。その鍵は、ポスト新古典派的改革である。あえて誤解を恐れず断言する。もはや、単純な「小さな政府」では、今日、わが国が直面する問題は解決し得ない。われわれは、政府自らは何事もなさないという市場原理主義の立場には立たない。ブッシュ大統領は来日時の国会演説の中で、「競争は倫理である」として小泉政権を礼賛したが、今、われわれが見直さなければならないのは、まさに「競争こそ全て」という米国型市場原理主義である。
では、われわれは自民党抵抗勢力と手を組もうとしているのか。答えは無論「ノー」である。
われわれは自由主義的改革を否定するものではない。むしろ既得権益でがんじがらめになっているわが国の現状を打破するための「健全な競争」の徹底には賛成であり、「景気対策」の名を借りて「健全な競争」を阻害し、既得権益の擁護を図る勢力とはあくまでも闘い抜く決意である。
今日まで繰り返されてきた、需要喚起のための赤字国債発行による安易な追加的財政出動は、意味を持たないばかりか、脆弱な財政基盤をさらに危機的状況に追い込み、日本経済の破綻リスクを高めるものである。
しかしながら、今日の社会経済環境を考える際、消極的な小さな政府や供給サイドの改革のみでは不十分である。アダム・スミスは「神の見えざる手」が経済の自律的均衡を実現すると指摘したが、現在の日本はアダム・スミスの生きた十八世紀とは根本的に異なる、複雑な問題を有している。
例えば街角や公園で、主婦やサラリーマンに今の生活の何が不安・不満か尋ねたときに、どのような答えが返ってくるだろうか。不景気に伴う将来不安とともに口々に語られるのは、住宅環境への不満、教育やいじめの問題、食品をめぐる安全性の問題、アトピーや花粉症など免疫性疾患とその原因となっている環境悪化などである。
こうした問題は消極的政府による自律的均衡では解決し得ない。
そこで、改めて問いかけよう。政府はだれのものであり、何のために存在するのか。
言うまでもなく、政府は国民の代表であり、国民の厚生と幸福の最大化のために存在する。
今、日本に必要なのは、「この国の経済活動と国民生活に、どのような要素が不足しているのか、国民の幸福のためには何をなすべきなのか」という点に関して、政府が自らの意思を明確に示すことである。
政府は、国民経済を素朴な「神の見えざる手」に委ね、自らの責任を放棄してはならない。いわんや、国家、国民を、利権に群がる「魔の手」に任せることがあっては断じてならない。政府が「強い意思」をもって国民経済の方向づけを行い、「価値の手」を差し伸べる時を迎えている。
今必要なのは、政府の「強い意思」である。民意を反映した政府の明確な「価値判断」である。
このような基本認識に立ったうえで、従来の価値観や伝統的政策手法にとらわれない、発想の転換や政策手法の変更が必要である。過去の因襲を大胆に突破することが、日本経済の危機脱出と再生のための必要条件である。
「新しい局面」には「新しい政策手法」へのチャレンジが欠かせない。つまり、われわれは、政策の「フロンティア」をめざさなくてはならないのである。
以下では、従来型の供給サイドの経済政策の発想にとらわれることなく、この国の経済活動と国民生活を改善していくための処方箋について、当事者意識を持った具体的な政策提言を試みよう。
デフレ対策のためにインフレを起こせという「インフレターゲティング政策」をめぐる議論が喧しいが、ここで、われわれは「消費ターゲティング政策」とも言うべき政策フロンティアを提示したい。
GDPの六割を占めるのは消費である。消費の回復なくして日本経済の再生はない。デフレスパイラルを発生させている最も大きな原因は、国民が本来有する消費余力が十分に顕現化していないことである。
つまり、消費意欲が減退しているのである。国民生活の質を向上させ、眠っている社会需要を掘り起こし、現在の消費不況の打開につながる政策フロンティアは何か。
良質な住宅ストックの蓄積、将来のわが国を支える人材の育成、環境保全に寄与する循環型耐久消費財の生産、わが国の先端科学技術を伸長させるような国産先端製品への需要拡大など、社会的に好ましい財やサービスの消費を促進するような「消費ターゲティング政策」をめざすべきだと考える。
もはや物が満ち溢れた中で拡大するのは、住宅や環境、教育など、人間に豊かさを提供するものである。
生活の豊かさの基盤は住宅にある。だからこそ国民の多様なニーズを反映すべきである。ライフステージに応じて、良質な住宅に居住できるような政策が求められている。単純な持ち家促進政策、そのための宅地造成を大前提とした住宅政策、及び、そうした住宅政策を基盤とした景気対策のための住宅投資減税等の過去の政策パッケージが、もはや陳腐化してしまったことは明らかである。
持ち家を持つことのみが人生の究極的目標といった価値観を国民に強要することなく、バラエティーに富んだ住宅が確保できるような政策をめざすべきであろう。良質な賃貸住宅の供給やセカンドハウスの取得を促進するような住宅ローン利子控除制度、リバース・モーゲージ、米国に比べて十七分の一の規模である住宅流通市場の整備、拡充を早急に行うべきである。
個人資産の大半を半永久的に住宅に固定することを改めれば、消費余力は高まってくるはずだ。
教育・人材の育成が国家百年の大計であることは論をまたない。しかし、もはや国家が一元的にキャッチアップ型の教育を押し付ける時代ではなく、子どもたち一人ひとりが自ら目標を見いだせるプログラムが教育に組み込まれていなくてはならない。
学校経営の多様化や教育バウチャーの導入により、選択可能な教育制度を再構築していくことが必要である。
一方、家計の教育負担の重さが、子を持つ働き盛りの三十代、四十代、五十代の世代の消費意欲を減殺していることは明らかである。
教育費用の所得控除も含め、負担軽減を図ることが急務であろう。
これに対し、社会の役に立つことをしたい、次世代の育成のために貢献したいと思っている国民は、決して少なくないと思われる。こうしたニーズを連結することこそ、これからの政府が追求すべき政策フロンティアと言える。
教育投資奨学基金を創設し、基金への寄付金に対しては大胆な所得控除を行い、個々の家計にかかる教育コストを基金が代替していくような仕組みは考えられないものか。いわば、国内版フォスタープランである。
こうした制度の創設を通して、個人の多様な能力の開花を促し、次代を担う人材を育成することが可能になる。これは同時に、自己実現支援産業とも呼べる新しい産業群の創出にもつながるだろう。
なお、公教育の学校施設の荒廃・老朽化も目に余る。四年後に教室当たり二台のコンピューター導入という政府目標の大幅な拡充とともに、かつて軍事教練の目的を兼ねて作られた土の校庭を、子どもたちの健康と感性を育む芝生の校庭へと一日も早く造り替えるべきである。
環境政策についても同様である。将来世代に持続可能性のある地球とその生態系を引き継ぐことは、政府の強い意思によってはじめて実現できる。市場主義者は経済効率を重視するため、環境問題を解決するための規制や税制の活用を拒否し、市場に解決を委ねてしまう傾向が強い。
しかし現実には、環境問題は、受益者の特定が困難で、現在から未来の世代にわたって広範囲に課題が存在する。市場では問題解決が困難な性格を有しており、政府の強い意思が必要なのである。
単に従来型の地球環境保全にとどまらず、国民に安全な「食」と「住」の環境を確保することも政府の最も基礎的な任務のひとつである。シックハウス症候群などに見られるここ二十年来の免疫性疾患の広がりは、われわれ人類の自然への過剰な侵食に対する一種の反作用とも考えられる。
次なる二十年を自然回帰、環境復元に向けて、国家のみならず、国民の意識変革期間としなければならない。
「環境問題と経済成長は相反する」という古いパラダイムを脱ぎ捨てれば、新たに拓かれる市場は限りなく大きい。家庭用燃料電池の開発、風力発電・太陽光発電等の再生可能エネルギーの活用、省エネ住宅、電気自動車のさらなる普及、水質浄化など、国民一人ひとりの生活の安全を確保する需要の創出を喚起するとともに、環境基金の創設やグリーン調達の促進、食の安全確保への国民的運動を加速させていくことが必要である。
住宅政策、教育政策、環境政策、この三つが政策フロンティアの道標である。方向性なき前進は、日本国民を遭難させることにつながりかねない。あれもこれも追求する総花的政策ではなく、めざすべき方向を見定め、政策の新地平を開拓することが必要なのである。
上記のようなミクロ的な政策によって住宅ローン返済や教育費負担による重石が取り除かれれば、本来、最も消費の旺盛な世代であるべき三十代、四十代、五十代のサラリーマン世帯の消費は回復に向かうだろう。それは、マクロ的な需要拡大にもつながるはずだ。マクロレベルでの消費回復のために、切り拓くべき重要な政策フロンティアはほかにもある。
税制インセンティブの活用である。
これまで消費税を何パーセントにするか、その水準についてさまざまな議論が展開されてきたが、税を動かすダイナミズムにも着目することが必要である。
われわれは、ここに、消費税の短期的(時限的)引き下げと中長期的引き上げのカップリング政策を提案したい。
そもそも、今日の不況や金融不安の遠因は、橋本政権時の消費税引き上げに遡ることができる。消費税の無原則、思慮不足の引き上げをいったんご破算にし、もう一度、ゼロベースで考え直すことが必要である。後に述べる「不良債権処理=ホスピタル政策」は短期的なデフレ圧力を増すことになるが、そうしたデフレ圧力を緩和するためにも、マクロレベルでの消費刺激を企図した消費税政策を検討してみる価値はある。
具体的には、速やかに消費税率を橋本政権失政前の3%に引き下げ(2年間程度)、その後、福祉財源化することを明確にしたうえで、六年程度の間に10%レベルまで段階的に引き上げる。あくまで減税と増税をパッケージにし、将来の段階的引き上げまでを国民に約束する「消費税改革十年計画」の提案である。
われわれはこの改革により、短期的には減税効果と増税前の駆け込み需要喚起によってマクロ的に国民経済の消費行動を刺激するとともに、中長期的な税制改革と財政構造改革、さらには高齢社会対策の充実を図ることが可能になると考える。
金融危機を契機に日本経済がメルトダウンする恐れが現実的なものとなっている。金融危機を克服し、健全な金融システムを復元する唯一の手段は、銀行を強制入院させる「ホスピタル政策」である。「病んだ人(銀行)は入院している。外を歩いているのは健康な人(銀行)ばかりだ」という虚構を、国民はもはや全く信用していない。
「この際、全員人間ドックに入り(徹底的な検査と経営再建計画を実施し)、健康になった人だけが退院する」という風景を提供することが、国民の安心感につながる。
全ての銀行に対して徹底的な検査を実施し、債務超過に陥った銀行は一時国有化する。いや、債務超過に陥った銀行のみならず、この際、金融産業全体を一時公的管理下に置くことの検討すら、決して過剰な対応とは言い切れない。そうした対応をとることによって、はじめて、本当の意味で厳格な検査を行えるのではないか。
すなわち、金融機関を入院させ、診断し、治療と手術を施して、健全な体質と体力を備えた状態で社会復帰させるという大胆な政策が必要である。換言すれば、市中で営業する民間の銀行は健全な銀行だけという安心感を、内外の投資家や預金者に与えることが必要である。
また、日銀の政策手法の転換も必要である。もはや、現在の金融緩和政策の延長線上では、企業金融市場の逼迫を改善することはできない。ホスピタル政策を通じて間接的に企業金融の円滑化をめざすことにとどまらず、一時的ではあれ、日銀によるCP、手形、社債の直接購入といった、企業金融市場によりダイレクトに影響を及ぼすような非伝統的な手段も検討の視野に入れざるを得ない。
そのほかにも、中小企業の債務の株式化と銀行等保有株式取得機構による株の買い取り、第二店頭市場の創設など、めざすべき政策の裾野は広い。
なお、現状の構造不況が継続すれば、ホスピタル政策の究極の姿、すなわち、国家経済そのものの入院の懸念も生じてくる。
すでにIMFやOECDは警告を発している。その場合、預金封鎖やデノミ(新円切り替え)といった望まざる政策にもチャレンジする必要性が生じるかもしれない。
もっとも、こうした究極の荒療治によって、百兆円超とも言われるアングラマネーが顕現化し、それらに然るべき税を課すことによって、財政再建にも大きく寄与する可能性も存在する。
われわれは供給側の改革を不要としているわけではない。すでに一部紹介してきたように、政策フロンティアの拡大のためには、供給側の改革も必要である。問題はその中身の戦略性である。
九〇年代の米国の繁栄は、十年越しに顕現化したレーガン税制の効果と、クリントン政権の「エンタープライズ経済政策」の成果と言われている。すなわち、クリントン政権は、単純な供給能力削減による需給バランス調整や企業投資減税等を行ったのではなく、全ての企業が等しく利用できる産業基盤(社会インフラや通信インフラ)の整備に成功したと言われている。日本も、こうした面は真摯に参考にしてみる必要があろう。
国際経営開発研究所(IMD)が発行する「世界競争力年報二〇〇一」での日本の立地魅力度ランキングは、製造拠点としては二十五位、研究開発拠点では十四位、サービス・経営拠点としては二十九位である。ちなみに、シンガポールは、それぞれ、一位、三位、三位。米国は、二位、一位、一位である。このように先進国中極めて劣悪である国際投資環境を真剣に改善していくことも、われわれが考える政策フロンティアそのものである。
規制緩和による高コスト構造の是正、思い切った投資インセンティブの付与、ハブ空港・港湾などナショナルインフラ整備の推進を、政府として明確に位置づけることが急務である。
環境、エネルギー、バイオ、ナノ・材料、ITなどの戦略分野を定め、研究開発、人材育成、起業支援などを通じてこれらの分野を日本経済の成長エンジンとして活用することが極めて重要である。
その際、戦略的な研究開発体制を作るとともに、政府系機関の人件費に消えていく従来型の研究開発費ではなく、民間部門に対してしっかりと予算が流れる仕組みを構築することが不可欠である。
同時に、供給過剰の産業界に対して思い切った産業再編、経営資源の選択と集中、特に、日本企業におけるマネジメント能力の高度化やリスクマネーの還流のシステムを作ることも避けて通れない。
既述のホスピタル政策やエンタープライズ経済政策を実践する過程では、一時的に失業率が高くなることも想定される。労働力の抜本的な再教育プログラムと拡充された失業保険の財政的な裏づけとして、等しく各産業セクターで痛みを分かちあうことを提案する。
最近、「ワークシェアリング」が政策論議の俎上に上ることが多い。本来のワークシェアリングは、正社員もパート社員も時間当たりの労働費用が等しくなければ正しく機能しないはずである。
しかし、わが国においては、両者の間に、社会保険料負担も含めて、かなりの待遇格差が存在する。さらに、間接部門では、長時間に及ぶサービス残業が行われることも少なくない。
そうした職場にこの制度を直ちに導入することは容易ではないが、障害を乗り越えてワークシェアリングを実現することによって、可能な限り多くの人々の間で痛みを分かちあうことが、社会的な要請と言えよう。
その際、ポイントとなるのは、現在、産業セクターの中で最も平均賃金が高い公的部門の扱いである。国民経済計算年報によれば、一人当たり雇用者所得は、公務員が一千十八万円であるのに対し、日本で最も国際競争力が強い自動車を含む輸送機械部門は六百二十九万円にとどまっている。
失業率が一時的に高くなる期間には、公的部門の勤労者の残業削減や一部賃金の削減により、三十兆円を超える総人件費を引き下げることが必須である。仮に一割削減するとすれば、創出される財源は三兆円を超えることになる。
この財源を活用することにより、追加財政負担なしに、従来の公的セクターでは不十分であった公的サービス、例えば、森林間伐や補助教員の採用など、新たな社会需要に応えることも可能になる。
行財政改革と、環境・自然保護、教育など、新たな社会需要の創出、新規雇用の創出という一石三鳥の果実を得ることができるのである。
われわれが開拓すべき政策フロンティアは、道なき荒野であると同時に、無限の可能性を秘めた豊かな原野でもある。単純な市場原理主義に与する政府や、「魔の手」の誘惑にとらわれている古い政治家を背後に打ち捨て、この原野を切り拓こう。それを担うのは、われわれの世代以降の新たなタイプの冒険家でなければならない。
こうした道を歩むうえで不可欠なのが、政府の「価値欲求」を明確にすることである。「価値欲求」とは、高名な財政学者、マスグレイブ博士が用いた用語である。元来「政府が実現したいと思っている方向性」とも言うべき概念である。
ここでわれわれは二つの意味で、「価値欲求」という言葉を使いたい。ひとつは繰り返し述べてきた「政府の意思」という意味。マスグレイブ博士の原義そのものである。
いまひとつは、「政府の意思」は、既得権益を有する一握りのグループの利益の反映で形づくられてはならず、あくまで国民一人ひとりが求めている「価値」、言い換えれば民意の集積でなければならないという点である。
政府の「価値欲求」、国家ビジョンが明確にならない限り、政治は常に調整の世界に踏みとどまり、いったん陥った悪循環の罠から抜け出すことは困難である。それが歴代の「改革標榜政権」が繰り返してきた失敗であった。
今、国民は、政府がいったいこの国をどうしたいと考えているのか、その「価値欲求」を知りたがっている。政府には、逆に、国民がいかなる社会を求めているのか、日々の生活で何を不満・不安に思っているのか、真摯に国民の声に耳を澄まし、それに基づき「政府の意思」を形づくり、国民に示す義務がある。
そのうえで、政府には、「価値欲求」に従った政策を断行する勇気が求められている。政策とは行動である。行動は結果を創造することである。そして、責任ある行動と結果の創出から、政府に対する、そして、政治に対する信頼が生まれるのである。
われわれは、今、国民の「価値欲求」を胸に、勇気を奮って、新たなフロンティアに歩みだす。
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