私の仕事は、国会の閉会中は、総理の国会演説などのスピーチライターであり、
国会開会中は、国会の質問の収集から、各省への割り振り、答弁資料の最終仕上げまでの責任者でした。
国会開会中は、毎日午前3時まで仕事をして、休みの日は死んだように寝ていました。
閉会中は、土日もなく演説ネタを考えていました。
時間がある合間を縫って、日本の役所で初めて、官邸にサーバーを導入し、ホームページを立ち上げました。
◆過去の自分も・・・・◆
官邸で気づいたことは、官僚にもいろんな人間がいるけれど、真の国益を考えている人間が、
こんなにも少ないのかということです。
自分の省庁に都合のいいことは、どの省庁もやりたがるけれど、
自分の省庁に都合の悪いことは誰もやらない。
国益は、省益に省益は局益にどんどん矮小化されている現実に大きな失望を感じました。
しかし、同時にそうした経験を通じて、あらためて、
自分自身がつい一年前まではまさにそうした存在であったのだと気づかされました。
自分の役所の利益を追求する。
役所から評価される仕事をやる。
そういう過去の自分に、官邸で、総理に仕える立場から、
霞が関の各省庁の官僚たちと付き合ってみて改めて強く気づかされたのです。
同時に、政治家にも、利益団体の手先のような政治家もいれば、
極めて誠実に国益というものを考えている人々も少なからずいることも知りました。
これまで、政治家といえば「利用する」対象としてしか見ていなかった自分を恥じました。
◆国益を貫こう!◆
官邸生活を通じて、ともかく、自分だけは、親元の通産省からクビになってでも、
自分の信じる国益を貫こうと固く誓いました。
そして政治家になることを現実の選択肢として真剣に考え始めたのも丁度このころからでした。
充実した官邸生活でしたし、中には通産省にもどらず官邸に残ってはどうかとのお誘いもありました。
官邸を最後に、官僚生活を終えようかという迷いもありました。
でもローテーション人事の哀しさ、私はもう一度通産省へ戻ることになります。
◆むなしさ◆
私に示された、通産省での配属は、大臣官房総務課課長補佐(法令審査委員)でした。
やるからには、自分の良心に照らして恥ずかしくないように懸命にやろうと心に誓いました。
しかし、官房総務課法令審査委員というのは、通産省のコントロールタワーともいえるポジションです。
法令を審査するというよりは、通産省全体の政策を審議する若手中心の役員会の副議長兼次期議長のような
ポジションです。
通産省という大組織の中で一生懸命省益のために働いている人間を叱咤激励し、
さらに省の利益のために働かせるのがその任務です。
ありていに言えば、通産省の権益を守り、拡張するその門番のようなポジションです。
通産省という役所は霞が関の中ではもっともリベラルな役所ですが、
それでも、権限折衝の際などは、官房総務課が筆頭となって、省益を追及する立場になります。
私は、着任後3ヶ月で、国益というものの価値を知ってしまった人間が、
省益追及を任務とする職についたときのむなしさを、いやというほど味わうことになります。
次第に再び「退職」の文字が頭をよぎっていくようになるのです。
でも一つだけ、辞めるのであればこの仕事をやってから去りたい、その思いを強く訴えかけた仕事があります。
それが「行政改革」でした。
◆行政改革をやって辞めよう!◆
個人的に行政改革について記述したメモが、ある人を介して、権力中枢に入りました。
突如として行革が政権の主要課題になります。
私の考えも反映される形で、総理直属の行革会議が発足することになり、
主要官庁から一人ずつ若手のエースを投入することが決定されました。
私は、当然のことながら、自分が行革会議に出向したいと志願を致しました。
何度も退職を口にしている私のようなものを行政改革のメンバーに入れるのはどうか?
という議論や、また逆の意味で、通産省のコントロールタワーである官房総務課次期筆頭課長補佐
(筆頭法令審査委員)を出向させることは、省内の秩序を壊すのではないか?
など、いろいろと議論が飛び交いました。
ですが、通産省から誰か一人といったとき、橋本行革の基本コンセプトを描き、
官邸経験もあるこいつにやらせるしかないだろうと、すったもんだの挙句に
行政改革会議に出向させていただけることになりました。
◆政治力◆
行革会議での経験は書き出すと一冊の書物になってしまいます。
ひとつだけ申し上げられるのは、
当時の総理大臣、橋本龍太郎さんについては、橋本派のトップということでいろんな評価もありますが、
こと行革に関する限り凄い政治家であるということです。
ともかくも、明治以来の省庁体制を壊す大仕事を自らの責任で提案・実行された、
その胆力だけでもきちんと評価を行うべきです。
その下で仕事をさせていただいたその時期に、私は政治の力の素晴らしさを味わうことができました。
また、政治を補佐する仕事のやりがいも感じることができました。
◆分身◆
そんな中、ひとつの出来事が私の中に残っています。
行革会議の中間集中審議というのがありまして、そのために昼夜問わず資料作成に没頭していました。
ある日の会議の中で、ある官庁が分断される決定が申し渡されました。
それを聞いた私の同僚が会議が終わった夕刻にこう言うのです。
「松井さん、悪い…。本当に気分が悪いから、…今日は帰らせてもらう…。」
集中審議の途中ですから、会議が終わったからと言って帰れるものではありません。
仕事は山ほど残っています。
しかし、その同僚は本当に真っ青な顔をして、這うようにして帰って行きました。
「少し前の自分を見ているようだ…。」
私は思いました。 組織と自分を一体化している人がいる。
組織が分断されるということは、その人の身が切り裂かれるのと同じような気分なのだ。
たぶん、数年前の自分が同じ状況にあれば、彼のようになっていたのかもしれない…。
◆水の泡◆
その後、行革は意外な展開を迎えることになります。橋本総理の影響力が低下するや、
族議員の猛烈な巻き返しが始まり、行革チームは政治の力に連戦連敗を繰り返します。
結論から申せば、私たちが精魂込めて作り上げてきた改革案もほとんど水の泡に帰することになるのです。
その宣告のあっけないこと。
「最後の重要事項はこれこれ、懸案事項はこれこれ。
そして議論の上、こういうことになりました。受け入れてください。」以上。
数十回の議論を行ってきた行革会議の委員の方々も最後は疲れ果て、挫折感を胸に秘めながらも、
まぁやむをえないでしょう、よくここまで来ましたよ、というよりほかにありません。
◆官僚と政治◆
何とも言えない、この敗北感。
どういう理由でひっくり返ったのかという理屈は一切なし。
省庁の数を半分にする、官邸主導の内閣を作るという案を出したのも政治ならば、
その案をその会議の委員に十分説明もできずにひっくり返すのも政治。
これがこの国の社会の現実…。
官僚と政治の関係とは、こういうことなのだと痛感させられました。
◆通産研究所◆
その後の2年間、私は、通産研究所の独立行政法人化というプロジェクトに取り組むことになります。
霞が関の外側に、霞が関と対抗できる、真のシンクタンクを作りたい。
政治主導の社会を作るにしても、族議員と業界が仕切るそんな政治主導では意味がない。
そのためには、
霞が関=業界団体=族議員
という鉄のトライアングルに楔を打ち込むことのできるような、
まともな政策集団が必要だというそんな思いで、仕事をさせていただきました。
この仕事はおそらく今後5年、10年ではなく、私のライフワークのひとつになると思います。
青木昌彦先生という、スタンフォード大学教授で世界的な経済学者の下にあって、ライフワークになるような
課題を、官僚生活最後の仕事として担わせていただいたのは、私にとって何よりの幸福でした。
そして、2000年10月3日。
私は官僚を辞めました。
偏差値で序列をつけるような内部評価。
それに委ねた官僚の昇進システム。
その価値観で(ある時期まで)生きてきた自分の官僚生活に、ついに終止符を打ちました。
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